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指導法や練習法の「科学」研究が進まない理由&現場にとっての科学の意義

「現場の問い」と○○科学

 世の中には優れた指導者がたくさんいらっしゃいます。そうした方々は、なぜ自分の指導法がうまく行くのか、なぜ他の方法でうまく行かないのか、さらには優れた指導法とそうでない指導法を分けるものは何か、といった問題意識や、それに対する仮説など、しばしば一家言持っています。

 指導を受ける側の立場の人も、どうやったら効率の良い練習ができるのだろうとか、この先生とあの先生の指導法はどっちが正しいんだろうとか、なぜあの人に勝てないのだろうとか、練習を続けながらいろいろな疑問を持つと思います。

 こうした「現場の問い」に応えることは、社会がスポーツ科学やパフォーマンス科学や技能科学といった分野に期待していることの大きな1つでしょう。私もそういうモチベーションで分野に入門しました。ところが、いざこれらの分野に入門して本格的に研究を探すと、そうした期待に直接応えてくれる(と誰が見ても感じる)ような研究は意外と少ないという現実に直面します。

 なぜ科学は現場の人々の期待に応えてくれないのでしょう。端的に言うと、実はこれらの問いは科学との相性が悪いのです。どう悪いのか、3つの観点から言い訳説明します。

 

属人的な要因を切り離すのが難しい

 「わしの指導法はこうこうこういう理由で優れておる」という指導法(Aとします)があったとします。そのことを科学的に証明しようと思ったら、別の指導法(Bとします)と比べて優れていることを示すことになります。つまり、2つの集団を用意して、片方には指導法Aで、もう片方には指導法Bで教えて、一定期間の後に結果を比べるという実験をするのがシンプルなやり方です。

 が、これがそう簡単ではありません。

 まず、AグループとBグループに割り振られる対象者の実力とか才能とかをそろえておく必要があります。元々うまい人や才能がありそうな人がAグループに偏っていたら、Aグループの結果が良かったとしても、そりゃ指導法じゃなくて元々の差じゃないのというツッコミが炸裂します。

 それでも見事AグループとBグループの対象者をそろえることができたとします。すると、次は指導者側の問題が立ちはだかります。「あなたは指導法Aが優れてると思ってるのに、指導法Bでの指導を同じ熱意でやることができますか」というものです。仮にできる!と自信を持って答えられたとしても、それで第三者を納得させられるでしょうか。自分で指導するならば、「あなたはAが優れてるという立場の人ですよね、ならAでの指導に無意識に熱が入ったんじゃないですか」という疑念を払拭するのはおそらく不可能でしょう。

 ここも第三者を指導者役に立てるなどしてクリアできたとしても、指導者役や対象者を野放しにしておくと、今度は対象者1人1人の練習量や指導者の声かけ頻度などといった部分に差が出てきかねません。どちらかのグループの方が練習量が多いとか、指導者がまめだとか、そういった差があれば、結果に差が出た本当の原因は指導法なのか、練習量なのか、指導者の態度なのか、よくわからないことになります。さらには対象者と指導者・指導法との相性といった問題もあります。

 したがって科学研究の対象になりうる、言い換えるとフェアな比較が可能な要因というのは、流派とか派閥とかを越えたレベルにあるような普遍的な対立軸とか分類とか水準づけとかが設定できる概念に絞られることになります。この時点で、科学の立場でできることはかなり絞られてしまいます。

 

「何を測って比べるのか」も難しい

 フェアな比較ができそうな概念が見つかったとしても、そもそも何を測って比べるのか、という問題があります。速いとか、強い力が発揮できるとか、狙った場所にボールを当てられるとかは、理解するのも測るのもさほど難しくなさそうです。ですが、無駄な力が入ってないとか、キレがあるとか、滑らかだとか、そういったうまさはどのように定義すればよいでしょう。定義して測れるようになったとしても、その妥当性はどう示せばよいのでしょう。

 このように、うまさの中には量というより質感で語られる要素もあります。この種のうまさも、科学のまな板の上に載せようとすると、どうにか量として測れるようにする必要があります。手っ取り早いのは人に見てもらって感性評価してもらうことですが、何が基準になって評価が分かれるのか=対応する物理量がなんなのかも含めて知りたい場合はそれでは済みません。

 さらに、対応する物理量が一見明らかなようでも、よくよく考えるとそれ自体色んな要素が関わっての最終出力に過ぎないですよね、という指摘もありうるでしょう。そういう場合には、対象となっている指導法や練習法はどの要素に効くものなのか、ということも重要になります。

 ちょうど都合の良い図に心当たりがある概念を例として挙げます。「敏捷性(アジリティ)」です。単純そうに見えてめちゃくちゃ複雑な概念です。どう複雑かを表した図がこちらです↓

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アジリティパフォーマンスの決定論的モデル 出典:Young & Farrow (著). NSCA Japan (訳). (2007). Strength & Conditioning, 14(2), pp. 14-19

https://www.nsca-japan.or.jp/journal/14(2)14-19.pdf

 実際に研究をしようと思うと、時間や機材や対象者の疲労といった都合が出てくるので、全部を測るわけには行きません。そもそも構成要素の中にも「視覚による読み取り」」「ストライド調整」「姿勢」のように、まだまだ分解できそうな概念があります。切りがありません。1つだけに着目するにしても、どれだけ細かく水準を分けるのかという問題があります。これも全部カバーしようとすると切りがありません。

 したがって1つの研究の中で扱える比較は、どうしてもごくごく限られた一部分を取り出したものになってしまいます。「こんな細かいことやっても意味ないやろ」という批判はしばしば耳にしますが、仕組みの理解まで見据えてできるだけ精密に、誤解がないように、と思って定義に気をつけると、細かくなるのは避けられないというわけです。

 

倫理的観点からも難しい

 ここまで全ての要因がクリアできたとしても、まだ困難が待ち受けています。それは倫理です。要するに、片方の指導法・練習法がよく効くと言うことは、もう片方は比較的良くない → 良くない方のグループに割り当てられた人は損することになるけど、そんなこと許されるの?という話です。

 対象者が納得してくれていればまあOKかもしれませんが、それでも損を最小限にする工夫とか、損するリスクに見合う見返りとか、どっちのグループで参加したいか(あるいはどちらにも参加しないこと)を主体的に選べる判断材料とか権利とか、そういった配慮は欠かせません。誠心誠意配慮して説明しても、師弟関係とか部活動のような権力勾配のある状況では、本当は嫌なんだけど仕方なく、みたいなこともあり得ます。

 このように、倫理的な観点からも「どっちの指導法・練習法が優れている」みたいな研究はものすごくやりにくいのです。まして介入が長期にわたる場合はなおさらです。全て納得して参加したとしても、途中で嫌になった場合に無理強いするわけにはいきません。リアルな競技場面からは少し離れた抽象的な認知課題・運動課題を用いて短期的な介入効果を見るという、現場の方からしたら煮え切らない感じの研究が多いのにはこういう背景があります。

 

終わりに

 以上のようなことを考えていくと、きちっと科学らしくやることのできる指導法・練習法の研究というのは、けっきょく内容的にも時間的にもごくごく限られた範囲のものに限定されてしまいます。

 「練習メニューとか練習日記とか経験談とか書いてるのはよくあるけど、きちっと科学してるような文章って少ないですよね」みたいな話は、ゼミの相談などに訪れた学生さんもよくなさいます。私もセールストークとしてそういう話を使うことはあるんですが、きちっと科学しようとすると上記のように現場感覚から離れて行きやすく、一方で現場に沿おうとすると科学らしくなくなってしまうというのっぴきならないトレードオフがあるというわけです。そのことを考えると、「現場に科学が足りない!」なんて危機感を煽りまくる研究者なんかより、「科学がなんじゃ!」というストロングスタイルな現場の方のほうが、実はよっぽど誠実と言える場合もあるかもしれません。ほとんど無理ゲーなんだからいつまででも「足りない」と言い続けられるわけなので。誠実でないと思われないために、科学の立場に立つ人はその限界をわきまえないといけません。

 

 このように後ろ向きなことばかり言っていると、「現場の問い」に対して科学はとても無力に思えてきます。それでも(ポジショントークにならざるをえませんが)決して無意味ではないはずです。唯一絶対の真理みたいなものは期待できないにせよ、用語の定義をはっきりさせる、その上で測ってみる、条件をできる限りそろえて比較する、仮説を立てて検証する、といった科学に含まれる営みは、試行錯誤や現象の理解・解釈のヒントにはなるはずです。

 というか、その「試行錯誤や現象の理解・解釈」で大失敗しないための具体的なフレームワークこそが、今述べた「科学に含まれる営み」なのではないでしょうか。つまり、科学が現場にもたらす最大の果実は個々の知見というより、個々の知見を得るに至る過程で培われる知的基礎体力とでも言うべきものの方なのではないかということです。

 スポーツでもアートでも、必殺技的なものを苦労して練習して習得しても、いざ試合・本番となると案外使いどころがなかったり、それを使おうとしすぎて逆に失敗するようなことがあると思います。でも必殺技の練習の過程で副次的に身についた体力とか身のこなしとか、そういった基礎的な能力に裏切られることはまずありません。

 身につけた知的基礎体力で、個々の知見がハマるシチュエーションと判断できれば使えばいいし、ハマらないと判断するならスルーする。ハマる知見が見つからないときは、論文よろしく他の知見をヒントにこうじゃないかと仮説を立て、指導者として・選手として納得できる道筋を検討する。定期的に計測を行い、順調ならそのまま続ける、方向転換した方がよさそうだったら考え直す。選手・指導者・研究者がスクラムを組んで、それぞれの立場や専門性の違いを認識して敬意を払いながら、そんなことを対等に議論する。大学教員としては、研究指導を通してそういう素養を身につけることの手助けができればいいなと思っています。

 技に関する科学的知見と「現場の問い」との関係はそのように捉えておくぐらいが、現場と研究とでいい関係を築くのに適したバランス感覚なんじゃないかなと、現時点では考えています。