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指導法や練習法の「科学」研究が進まない理由&現場にとっての科学の意義

「現場の問い」と○○科学

 世の中には優れた指導者がたくさんいらっしゃいます。そうした方々は、なぜ自分の指導法がうまく行くのか、なぜ他の方法でうまく行かないのか、さらには優れた指導法とそうでない指導法を分けるものは何か、といった問題意識や、それに対する仮説など、しばしば一家言持っています。

 指導を受ける側の立場の人も、どうやったら効率の良い練習ができるのだろうとか、この先生とあの先生の指導法はどっちが正しいんだろうとか、なぜあの人に勝てないのだろうとか、練習を続けながらいろいろな疑問を持つと思います。

 こうした「現場の問い」に応えることは、社会がスポーツ科学やパフォーマンス科学や技能科学といった分野に期待していることの大きな1つでしょう。私もそういうモチベーションで分野に入門しました。ところが、いざこれらの分野に入門して本格的に研究を探すと、そうした期待に直接応えてくれる(と誰が見ても感じる)ような研究は意外と少ないという現実に直面します。

 なぜ科学は現場の人々の期待に応えてくれないのでしょう。端的に言うと、実はこれらの問いは科学との相性が悪いのです。どう悪いのか、3つの観点から言い訳説明します。

 

属人的な要因を切り離すのが難しい

 「わしの指導法はこうこうこういう理由で優れておる」という指導法(Aとします)があったとします。そのことを科学的に証明しようと思ったら、別の指導法(Bとします)と比べて優れていることを示すことになります。つまり、2つの集団を用意して、片方には指導法Aで、もう片方には指導法Bで教えて、一定期間の後に結果を比べるという実験をするのがシンプルなやり方です。

 が、これがそう簡単ではありません。

 まず、AグループとBグループに割り振られる対象者の実力とか才能とかをそろえておく必要があります。元々うまい人や才能がありそうな人がAグループに偏っていたら、Aグループの結果が良かったとしても、そりゃ指導法じゃなくて元々の差じゃないのというツッコミが炸裂します。

 それでも見事AグループとBグループの対象者をそろえることができたとします。すると、次は指導者側の問題が立ちはだかります。「あなたは指導法Aが優れてると思ってるのに、指導法Bでの指導を同じ熱意でやることができますか」というものです。仮にできる!と自信を持って答えられたとしても、それで第三者を納得させられるでしょうか。自分で指導するならば、「あなたはAが優れてるという立場の人ですよね、ならAでの指導に無意識に熱が入ったんじゃないですか」という疑念を払拭するのはおそらく不可能でしょう。

 ここも第三者を指導者役に立てるなどしてクリアできたとしても、指導者役や対象者を野放しにしておくと、今度は対象者1人1人の練習量や指導者の声かけ頻度などといった部分に差が出てきかねません。どちらかのグループの方が練習量が多いとか、指導者がまめだとか、そういった差があれば、結果に差が出た本当の原因は指導法なのか、練習量なのか、指導者の態度なのか、よくわからないことになります。さらには対象者と指導者・指導法との相性といった問題もあります。

 したがって科学研究の対象になりうる、言い換えるとフェアな比較が可能な要因というのは、流派とか派閥とかを越えたレベルにあるような普遍的な対立軸とか分類とか水準づけとかが設定できる概念に絞られることになります。この時点で、科学の立場でできることはかなり絞られてしまいます。

 

「何を測って比べるのか」も難しい

 フェアな比較ができそうな概念が見つかったとしても、そもそも何を測って比べるのか、という問題があります。速いとか、強い力が発揮できるとか、狙った場所にボールを当てられるとかは、理解するのも測るのもさほど難しくなさそうです。ですが、無駄な力が入ってないとか、キレがあるとか、滑らかだとか、そういったうまさはどのように定義すればよいでしょう。定義して測れるようになったとしても、その妥当性はどう示せばよいのでしょう。

 このように、うまさの中には量というより質感で語られる要素もあります。この種のうまさも、科学のまな板の上に載せようとすると、どうにか量として測れるようにする必要があります。手っ取り早いのは人に見てもらって感性評価してもらうことですが、何が基準になって評価が分かれるのか=対応する物理量がなんなのかも含めて知りたい場合はそれでは済みません。

 さらに、対応する物理量が一見明らかなようでも、よくよく考えるとそれ自体色んな要素が関わっての最終出力に過ぎないですよね、という指摘もありうるでしょう。そういう場合には、対象となっている指導法や練習法はどの要素に効くものなのか、ということも重要になります。

 ちょうど都合の良い図に心当たりがある概念を例として挙げます。「敏捷性(アジリティ)」です。単純そうに見えてめちゃくちゃ複雑な概念です。どう複雑かを表した図がこちらです↓

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アジリティパフォーマンスの決定論的モデル 出典:Young & Farrow (著). NSCA Japan (訳). (2007). Strength & Conditioning, 14(2), pp. 14-19

https://www.nsca-japan.or.jp/journal/14(2)14-19.pdf

 実際に研究をしようと思うと、時間や機材や対象者の疲労といった都合が出てくるので、全部を測るわけには行きません。そもそも構成要素の中にも「視覚による読み取り」」「ストライド調整」「姿勢」のように、まだまだ分解できそうな概念があります。切りがありません。1つだけに着目するにしても、どれだけ細かく水準を分けるのかという問題があります。これも全部カバーしようとすると切りがありません。

 したがって1つの研究の中で扱える比較は、どうしてもごくごく限られた一部分を取り出したものになってしまいます。「こんな細かいことやっても意味ないやろ」という批判はしばしば耳にしますが、仕組みの理解まで見据えてできるだけ精密に、誤解がないように、と思って定義に気をつけると、細かくなるのは避けられないというわけです。

 

倫理的観点からも難しい

 ここまで全ての要因がクリアできたとしても、まだ困難が待ち受けています。それは倫理です。要するに、片方の指導法・練習法がよく効くと言うことは、もう片方は比較的良くない → 良くない方のグループに割り当てられた人は損することになるけど、そんなこと許されるの?という話です。

 対象者が納得してくれていればまあOKかもしれませんが、それでも損を最小限にする工夫とか、損するリスクに見合う見返りとか、どっちのグループで参加したいか(あるいはどちらにも参加しないこと)を主体的に選べる判断材料とか権利とか、そういった配慮は欠かせません。誠心誠意配慮して説明しても、師弟関係とか部活動のような権力勾配のある状況では、本当は嫌なんだけど仕方なく、みたいなこともあり得ます。

 このように、倫理的な観点からも「どっちの指導法・練習法が優れている」みたいな研究はものすごくやりにくいのです。まして介入が長期にわたる場合はなおさらです。全て納得して参加したとしても、途中で嫌になった場合に無理強いするわけにはいきません。リアルな競技場面からは少し離れた抽象的な認知課題・運動課題を用いて短期的な介入効果を見るという、現場の方からしたら煮え切らない感じの研究が多いのにはこういう背景があります。

 

終わりに

 以上のようなことを考えていくと、きちっと科学らしくやることのできる指導法・練習法の研究というのは、けっきょく内容的にも時間的にもごくごく限られた範囲のものに限定されてしまいます。

 「練習メニューとか練習日記とか経験談とか書いてるのはよくあるけど、きちっと科学してるような文章って少ないですよね」みたいな話は、ゼミの相談などに訪れた学生さんもよくなさいます。私もセールストークとしてそういう話を使うことはあるんですが、きちっと科学しようとすると上記のように現場感覚から離れて行きやすく、一方で現場に沿おうとすると科学らしくなくなってしまうというのっぴきならないトレードオフがあるというわけです。そのことを考えると、「現場に科学が足りない!」なんて危機感を煽りまくる研究者なんかより、「科学がなんじゃ!」というストロングスタイルな現場の方のほうが、実はよっぽど誠実と言える場合もあるかもしれません。ほとんど無理ゲーなんだからいつまででも「足りない」と言い続けられるわけなので。誠実でないと思われないために、科学の立場に立つ人はその限界をわきまえないといけません。

 

 このように後ろ向きなことばかり言っていると、「現場の問い」に対して科学はとても無力に思えてきます。それでも(ポジショントークにならざるをえませんが)決して無意味ではないはずです。唯一絶対の真理みたいなものは期待できないにせよ、用語の定義をはっきりさせる、その上で測ってみる、条件をできる限りそろえて比較する、仮説を立てて検証する、といった科学に含まれる営みは、試行錯誤や現象の理解・解釈のヒントにはなるはずです。

 というか、その「試行錯誤や現象の理解・解釈」で大失敗しないための具体的なフレームワークこそが、今述べた「科学に含まれる営み」なのではないでしょうか。つまり、科学が現場にもたらす最大の果実は個々の知見というより、個々の知見を得るに至る過程で培われる知的基礎体力とでも言うべきものの方なのではないかということです。

 スポーツでもアートでも、必殺技的なものを苦労して練習して習得しても、いざ試合・本番となると案外使いどころがなかったり、それを使おうとしすぎて逆に失敗するようなことがあると思います。でも必殺技の練習の過程で副次的に身についた体力とか身のこなしとか、そういった基礎的な能力に裏切られることはまずありません。

 身につけた知的基礎体力で、個々の知見がハマるシチュエーションと判断できれば使えばいいし、ハマらないと判断するならスルーする。ハマる知見が見つからないときは、論文よろしく他の知見をヒントにこうじゃないかと仮説を立て、指導者として・選手として納得できる道筋を検討する。定期的に計測を行い、順調ならそのまま続ける、方向転換した方がよさそうだったら考え直す。選手・指導者・研究者がスクラムを組んで、それぞれの立場や専門性の違いを認識して敬意を払いながら、そんなことを対等に議論する。大学教員としては、研究指導を通してそういう素養を身につけることの手助けができればいいなと思っています。

 技に関する科学的知見と「現場の問い」との関係はそのように捉えておくぐらいが、現場と研究とでいい関係を築くのに適したバランス感覚なんじゃないかなと、現時点では考えています。

 

ミサやレクイエムの合唱がコスパ良すぎる件

文化・芸術でコスパとか言ったら怒られそうな気もしつつ、それにしてもミサ・レクイエムのコスパは間違いなくすごい。

 

歌詞がほとんど共通

というのは、ミサやレクイエムには典礼文という、どの曲にも共通の歌詞が含まれているのである。

しかも有名な曲では典礼文以外の歌詞が含まれていることの方が珍しいぐらい。

なので1回どこかでミサ・レクイエムの合唱に参加してがんばっておけば、他の作曲家のミサ・レクイエムでも歌詞はほとんど共通なので、以降は少なくとも歌詞に苦労させられることはほとんど無い。

ジョスカン・デ・プレ(1450/1455?年生~1521年没)からペンデレツキ(1933年生 ~ 2020年没)まで、曲は違っても歌詞は共通!

 

特定の団やサークルに所属しなくても歌える機会がある

特にモーツァルトヴェルディフォーレあたりのレクイエム、バッハのロ短調ミサやベートーベンの荘厳ミサ(ミサ・ソレムニス)あたりは有名で演奏される機会も多く、ホールや公民館でチラシを探したりググったりすれば、しばしば合唱の出演者が募集されている。

特定の合唱団に正式に参加すると運営の仕事が降ってくることがあるけど、単発のゲスト参加は参加費払って練習と本番に行くだけで済むので、本当に気楽で最高なのである(クズ並感)

 

実は発音も大して難しくはない

「でもラテン語でしょ?」と思ったら高いハードルに思えるけれど、発音自体はほぼほぼローマ字読みで済むので、実はそんなに高いハードルでなかったりする。

ドイツ語っぽく読むのかイタリア語っぽく読むのかで微妙に変わったりとかはあるけど、指揮者やパートリーダーがちゃんと指示してくれる。はず。

 

強者と一緒に歌えることが多い

そうは言ってもやはりハードルが高いと感じる人は多いと思うが、逆に言えば集まってくるのは腕(喉?)に覚えのある人が自然と中心になるので、割と大船に乗った気持ちで大丈夫だったりする。

中には「この曲に感動したので歌いたいと思って来ました!楽譜は読めません!」という方向の強者もまれにいるぐらい。そしてそういう人がどんどん歌えるようになっていくのを目の当たりにできることもあり、これもまたけっこう楽しい。

 

一人での練習もしやすい

練習も自力でやるのは大変だけれど、百年単位で演奏され続けてて著作権も切れているだけあり、CDやYouTubeのみならず、英語で「(曲名) midi」とかでググればどこかの合唱団の練習用MIDIや、古のDTM好きの人が作ったMIDIファイルがヒットすることも多い。

それをDominoなどフリーのシーケンサに放り込めば、自分のパートだけ音を大きく、他のパートは音を小さくなど自由自在なので、楽器が弾けなくても自力練習が可能。この点に関しては日本の合唱曲の方がよっぽど大変なように思う。

 

射程範囲が広い

オケの伴奏が付いてることが多いので、オケの人と共通の話題になったりもする。

流行り廃りもクラシックだけあってあまり無いので、年の離れた合唱勢とも共通の話題になりやすい。

特に大学の合唱サークルで定期的にやってたりすると、何十歳も離れた現役生とOBOGが共通の曲や歌詞で盛り上がれたりします*1

 

というわけで

ミサやレクイエムの合唱はめちゃくちゃコスパいいです。合唱好きの人は、若い内に一度経験しておくことをおすすめします。なぜなら一度経験しておけば以降の人生で「やりたい」と思ったときにやりやすくなり、どうせなら若い内の方がやりやすい期間が長くなるから。

そしてこれからの人生で一番若いのはまさに今このときです!!!!

 

 

余談

こんなことを思ったのは、最近ブラームスドイツ・レクイエムに参加したため。

演奏会の詳細は事情により詳しく書くことはできないのですが、練習や交流会に参加しながら上記のようなことをしみじみ思ったのでした。

まあドイツ・レクイエム典礼文でもラテン語でもないので、だいぶ骨が折れましたが…(割とギリギリまで「レクイエムか!そんなら行けるな!」と軽い気持ちで即決したのを後悔してた)(でもやっぱり名曲だし記念演奏会だし、終わってみれば最高に幸せでした)

*1:現役生が無理して合わせてくれてる可能性についてもOBOGは常に考えておくべきと思いますが

(解析メモ)Excelで時刻データを扱う2

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(解析メモ)時刻のデータをExcelやMatlabで扱う - らくがきちょう

 

調査票とかをよく考えずに入力したり、使ってたサービスの仕様の問題だったりで、時刻データをどう計算するか迷った経験。あると思います(私だけ?)

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どうしてこうなった

大丈夫、なんとかするための関数はあります。

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なんとかなった

解説(すべて2行目の入力として)

B列「入眠」

次のように入力しています: =LEFT(A2, FIND("-", A2)-1)

LEFT(文字列, 文字数) 関数は、入力文字列のうち左から指定文字数だけ抜き出してくる関数です。たとえば = LEFT("hogehoge", 3) と入力すると hog が返ってきます。

文字列の部分にセルを指定すれば、セル内に入力された文字列を入力したことになります。

そしていま文字数のところに入れた FIND("-", A2) はFIND(検索文字列, 対象) 関数で、対象として指定した場所において、検索文字列が左から何文字目にあるかを探し出します。

つまり FIND("-", A2)-1 で「入眠時刻と起床時刻をつなぐハイフンの1つ前まで」の文字数が返ってきます。これで入眠時刻が日をまたいだりまたいでなかったりしても問題なくなります。

 

C列「起床」

次のように入力しています: =RIGHT(A2, LEN(A2)-FIND("-", A2))

RIGHT(文字列, 文字数) 関数はLEFTと同様、入力文字列のうち右から指定文字数だけ抜き出してくる関数です。 =RIGHT("hogehoge", 3)なら oge が返ってきます。

文字数のところには先ほどのFINDともうひとつ、LEN 関数を使います。LEN(文字列)は、入力した文字列の文字数を返す関数です。=LEN("hogehoge")なら8が返ってきます。

つまり LEN(A2)-FIND("-", A2) で、ハイフンまでの左からの文字数を全体の長さから引いた長さとなり、ハイフンの右側の文字列が返ってきます。

 

D列「入眠(シリアル値)」とE列「起床(シリアル値)」

次のように入力しています: =IF(TIMEVALUE(B2) > 0.5, TIMEVALUE(B2)-1, TIMEVALUE(B2)) 

IF関数はIF(論理式, 真の場合, 偽の場合) で、「論理式」のところに入力した等式や不等式が満たされる(真)か満たされない(偽)かでそれぞれ別の値を返してくれます。

つまり TIMEVALUE(B2) が0.5より大きければ TIMEVALUE(B2)-1 を、0.5以下であれば TIMEVALUE(B2) を返してくださいという意味です。

で、このTIMEVALUEとはなにかというと、=TIMEVALUE(時刻) で、入力した時刻に対応するシリアル値を返してくれる関数です。時刻シリアル値とは、1日の24時間の間に現れる時刻(秒)を0~1の値で表した数値です。

たとえば0時0分0秒は0、12時0分0秒は0.5、18時0分0秒は0.75になります。より細かく言えば、24時間=86,400秒なので、1秒経過するごとに時刻シリアル値は 86,400分の1ずつ増えていきます。

つまりここのIF文に書いたことは、「B2の時刻が昼の12時より後なら時刻シリアル値から1引いた値、昼の12時より前ならそのままのシリアル値を返して下さい」ということです。「時刻シリアル値から1を引く」ことで、たとえば「昨日の夜9時」を「今日の-3時」みたいな表し方にできます。境目を昼の12時にしてるのはとりあえずです。真っ昼間から寝てる人がいた場合はまた別の値にするとか例外処理とか工夫が必要になりますかね…

 

E列「起床(シリアル値)」

次のように入力しています: =TIMEVALUE(C2)

ここはさすがに今日の起床時間になってると思うのでとりあえずこうしてます。24時過ぎに起きた人がいたらそれはそのとき考えましょう…

 

F列「睡眠時間(シリアル値)」

次のように入力しています: =E2-D2

シリアル値で表した起床時間から入眠時間を引いただけです。これで睡眠時間をシリアル値で表せたことになります。

 

G列「睡眠時間(h)」

次のように入力しています: =F2*24

先述のように時刻シリアル値は24時間を0~1の小数で表したものなので、24をかければ単位がhourになります。これで表の完成です。

 

おまけ:平均睡眠時間を求める

平均睡眠時間は普通に =AVERAGE(G2:G5) とすれば求まります。ただし「分」の部分が10進法になっています。もし60進法に直したいなら、次のようにすれば「時間」と「分」の部分を分けることができます。

  • 「時間」を取り出す
     → 整数部分を取り出せばいいので、 ROUNDDOWN関数を使います。
  • 「分」を取り出す
     → MOD関数で小数部分を取り出し、60をかければ「分」になります。(MODの「除数」に、先ほどROUNDDOWNで取り出した整数部分を使います)

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ROUNDDOWN関数で整数部分を取り出す

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MOD関数で小数部分を取り出して60をかけて「分」にする

 

「秒」も同じ要領で取り出せます(ROUNDDOWN関数で整数部分「分」を取り出し、さらにMOD関数で取り出した小数部分に60をかける)。

 

ありがとうExcel、ありがとうMicrosoft

 

 

フロイトから考える科学コミュニケーションのアンチパターン

 精神分析学の始祖、ジークムント・フロイトの一般的な評価って不当だよなと思ってます。しかしそれって科学コミュニケーションに大失敗してる典型例の1つなんじゃないか、とふと思いました。

そんなわけで、フロイトを題材に、科学コミュニケーションのアンチパターンをちょっと考えてみました。結論としては次の2点が致命的な失敗(もしくはやりにくさ)なのかなと思います:

  • 「何をしたか」の話ばかりで背景情報が不足
  • パワーワードが悪目立ちする

本記事ではまず「フロイトって何した人?」をあえて雑に説明してから、上記2点について論じます。

 

フロイトってどういう人?

 「フロイト」+「精神分析」「無意識」「自我」「リビドー」「エディプス・コンプレックス」あたりで検索していただいたら雰囲気はわかるのではないかと思います。

参考に、私の環境で今(良くないけどありがちそうな調べ方として)「フロイト まとめ」とGoogle検索したときに出てきた上位5つのページのリンクを貼り付けておきます。

精神分析学の創始者”フロイト”の発達理論ってどんなもの?|お役立ち保育コンテンツ|保育士の転職求人なら「保育ぷらす+」

3分でわかる! フロイト『精神分析入門』 | 読破できない難解な本がわかる本 | ダイヤモンド・オンライン

心理学の三大巨匠!フロイト・ユング・アドラーの学説を知る

【フロイトの無意識とは】意識やエスとの関係をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド

フロイト『精神分析入門』を解読する | Philosophy Guides

 

 どのウェブサイトも真面目なトーンで解説していますが、ここではあえてめちゃくちゃ雑に悪意すら感じるまとめ方をするならば、

 

「心の発達や病気を無意識とエロスで説明しようとした人」

 

…みたいな風に捉えられなくもないんじゃないかと思います。というか、そのように捉えてる人は実際けっこういるんじゃないかと(勝手に)思っています。

少なくとも、たとえば「フロイト トンデモ」でTwitterを検索すると、フロイト=「トンデモな人」みたいに認識してる人が少なからずいるように見えます。まあ実際個別の理論を見るとトンデモと言われてもしょうがない気はしますが。

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Twitterで「フロイト トンデモ」と検索した結果

 

 というわけで前置きが長くなりましたが、なぜこのような捉え方になっているのか。最初に示したように「何をしたか」の話ばかりで背景情報が不足という伝え方の問題と、そうなってしまう原因の1つとしてパワーワードが悪目立ちするというフロイト理論自体の問題があるのかなと思います。*1

 

「何をしたか」の話ばかりで背景情報が不足

 上に挙げた5つのwebサイトを慎重に読むと、「何を言った人か」という情報はたくさん書かれている一方で、「どういう時代にそういうことを言い出したのか」という話が全くと言っていいほど書かれていないことがわかります。*2

  

 たとえば無意識=人間の心には自ら把握できない部分があるという主張は、当時主流だったであろうデカルト以来の合理主義(人間の理性は他の力をかりずとも客観的真理を把握しうるとする哲学的立場)に反する考え方です。

実際、今日「実験心理学の父」と呼ばれるヴィルヘルム・ヴントフロイトより24歳年上の生理学出身の生理学者・心理学者)が重視していた実験データは「内観」、つまり自身の心の状態を自ら観察・分析するというものでした。

そのような時代に「人間の精神には自ら把握できない無意識の領域がある」という主張をフロイトはしたわけです。*3

 

 さらに、神経症の原因をその「無意識」という患者の内部の事柄に求めた点についても画期的です。なぜなら、精神病や神経症には、病気と言うよりは宗教的な罪の現れとか心霊現象とかの類いとして長い間とらえられてきたという歴史があるからです。*4

 

一方、今となっては無意識の存在を疑う人も、精神病・神経症を心霊現象と捉える人もほとんどいません。こうなると、無意識の発見も、それを神経症の病因論につなげたということも、ほとんど当たり前のことに思えて何が重要なのかがよくわかりません。背景と一緒に伝えて初めて、これらの業績の重要性も伝わります。

 

 なおこれらは「トンデモ」的な突拍子もない発想から出発しているわけではなく、言い間違いなどに代表される「錯誤行為」の研究や、「お話し療法」でヒステリー症状が軽減するといった 、少なくとも臨床経験という事実から着想を得たとされています。

もともとフロイトは物理学専攻から神経生理学専攻に移ってそれから精神科医になった人で、また無神論者でした。そんな来歴だからこそ、できるだけ人間の言葉や行動の意味を科学的な現象に帰着させたいという思いが強く、結果として現在当たり前に受け入れられている「無意識」や「精神病・神経症は心霊現象ではありません」という発想へ早い時期に至れたのではないかと個人的には思います。*5

  

パワーワードが悪目立ちする

 前項ではフロイトを擁護しまくりましたが、それでもやっぱりトンデモ扱いされるのは仕方ないように思います。なにしろパワーワードが目立ちすぎます。パッと思いつくだけでも「リビドー」「エディプス・コンプレックス」「肛門期」「男根期」「性器期」

こういうパワフルなキーワードは注目を集めたり*6 アイディアを手早く伝えたりには有効な一方で、一人歩きしてしまうという危うさも持っています。そこへ性的な要素が乗ってきたらもう大変です。

しかも、これらのアイディアには検証が不可能なものも含まれます。科学哲学者カール・ポパーはこの点から、精神分析学を疑似科学と見なしています。

 

 さらにフロイトにとって不幸なこととして、ユングアドラーラカンのように、影響を受けた次世代があらたなパワーワードを生み出しながらスピリチュアルや疑似科学の方面で有名になってしまったことも挙げられると思います。

もちろん彼らも無意識や「精神病・神経症は心霊現象ではありません」といった現代に通じるアイディアを受け継いでいて、心理学史に残っているだけある重要な仕事をしています。それでも新たなパワーワードとそれらを用いて作られた独自の理論は、科学の立場からは批判されても仕方ありません。

 

 そして20世紀も半ばになると、抗うつ薬抗精神病薬の発明により、精神病・神経症が生理学的現象であることはほとんど疑われなくなりました。哲学者らも西洋の伝統的人間観への異議を唱えるようになり(ポストモダン)、「無意識」を人々が受け入れる土壌ができあがっていきました。

こうしてフロイトの最大の業績は、いつしか前述のように「当たり前」になったのでしょう。しかしパワーワードは相変わらずパワーワードなのでますます悪目立ちしてしまい、ポピュラー心理学本やインターネットで繰り返し面白おかしく紹介されるなどして、現在の一般的評価に至っているものと推察されます。

  

まとめと科学コミュニケーションへの示唆

  • フロイトの「無意識」と、それを精神病・神経症の病因に結びつけた理論は画期的だった
  • しかし 1.時代背景が省略されることが多い上に、 2.パワーワードが悪目立ちして、評価が不当にゆがむのにつながったのではないか

というお話しでした。

 

 科学コミュニケーションへの示唆としては、上記2点目で示した2つの難点にいかに対処するかが、発信者の立場として重要だろうということです。

どちらも当たり前と言えば当たり前ですけど、この両方に配慮した上で「呼んでもらえる長さ」の記事を書くというのは地味に大変です。*7 フロイトは残念ながら、うまくやってもらいにくい理論を作ってしまい、実際うまくやってもらえなかった人の典型例と言えるでしょう。

 情報の受け手も言葉のパワーに惑わされず「どういう時代に提唱された理論なのか」「理論の本質は何なのか(または特に今現在でも重要とみなされているのはどういう部分によるのか)」などを見極めたり情報不足に気づいたり判断を保留したりするリテラシーを持つことが大切です(そう簡単に身につくものではありませんが)。

 

 大学教員としては、非専門の学生含め一般の方向けに話す機会もちょいちょいあるので、そのあたりに気を付けながら話を組み立てていきたいところです。一方学生さんにも、そのあたりに気をつけながら授業を聞いていただいたり、教員に質問してはっきり説明させたり、レポート・学位論文の執筆などを通してその難しさを体感しつつなんとかしようとする意識やスキルを身につけていただいたりしてほしいところです。

 

 

 

*1:他にも「膨大な仕事を簡単にまとめようとする」という試み自体が無茶という点もあると思いますが、あまり建設的に思えないので置いときます

*2:さすがにWikipediaでは(これを書いている2021年8月11日現在)「評価と業績」という項で多少触れられていたり「生涯」の項でヒントになるような事柄が書かれてはいますが、メディアの性質上ポジティブな意義を強調する形にはなっていないので、わかりやすくはないと思います。ジークムント・フロイト - Wikipedia

*3:当然内観に頼る心理学は後に客観性に欠けるとして批判され、その批判は客観的に観察可能な行動を根拠として心的過程を考えるべきとする「行動主義」につながりました。行動主義は精神分析と同時期(20世紀前半)に心理学界へ浸透していきましたが、無意識という概念は行動主義心理学より先に提唱されているようです。また、行動主義は意識・無意識以前に心の存在自体を前提とせずにヒトの行動を説明・予測しようとする点で精神分析とは異なります。

*4:たとえばCiNii 論文 -  イギリスにおける近代化と精神医療 : 精神障害はどう対応されてきたか 上島・渡辺・榊(編著). (2019). ナースの精神医学 改訂5版, 中外医学社 第1章(の立ち読みPDF)

*5:フロイトはおそらく「錯誤行為」や自由連想法夢分析を、無意識に迫るためのプローブとみなしていたのだと個人的には思っています。しかしそれが結果的に先入観や個人的な趣味に基づいてると誤解されやすい性理論に行き着いたのは皮肉です…

*6:そのために性的な要素を入れたわけではないでしょうけど

*7:この記事も、きっとここに至るまでに9割以上の読者が脱落してると思います。ここまでたどり着いてくれてありがとうございます

因果関係が証明できてない研究や、回帰係数・説明率・効果量が弱い研究は無意味なのか?

「この研究は因果関係が証明できていない」「回帰係数・説明率・効果量が弱すぎる」といった批判は、研究紹介記事がバズったときのソーシャルメディアの反応としてつきものです。*1

同意することもあるのですがモヤることもかなり多いので、自分なりに「必ずしも無意味ではないのでは?という趣旨で思うところを書いてみました。

 特に、個々の研究に向けた上記の批判は、その研究の主張の強さやデザインや目的など総合的に見て適切か不適切か判断すればいいのですが、人文・社会科学領域の計量的研究全般に対してこういう批判がなされることも結構あるように思います。

いかにも素人っぽい人がそう言ってる分には別に構わない(とも言い切れない)のですが、プロの研究者やそれに準ずる人・目指してそうな人が、そういう「主語の大きい」雑な批判をしているのを見ると、ちょっと悲しくなります。*2

もちろん因果関係が証明できてる結果や、回帰係数・説明率・効果量が強い結果の方が望ましいだろうということには基本的には同意します。ただ、コスト的な問題とか、健全な科学として踏むべきステップとか、そもそもの「意義」の捉え方とか考えていくと、相関だけの研究とか回帰係数・説明率・効果量が弱い結果が発表されることにだって意義はあると思うんです。

 

なおここでは先日話題になった重回帰論文で特に問題視されていたような、統計解析の利用法や解釈における明らかな誤りはクリアできているものと仮定します。*3

 

(以下長文)

 

*1:「『サンプル数』が少なすぎる」も定番ですが、本題から外れるのでここではスルー

*2:時には憤慨します。

*3:その仮定がすでに非現実的なんだよ!と言われてしまうと厳しいですが…

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2021年版:大学新入生のパソコンの選び方

 結論から書くと、 

  推奨 妥協
タイプ ノートパソコン
CPU Core i7 Core i5
OS Windows 10 Pro Windows 10 Home
オフィスソフト なし or Microsoft Office Home and Business
メモリ 16 GB以上 8GB
ストレージ SSD 512GB以上 256GB
グラフィック GeForce系 or Radeon (選択無し)
重量 2.0 kg以内 (選択無し)
駆動時間 10時間以上 6時間以上

 
 価格ドットコムのスペック検索で上記「推奨」ぐらいの条件をつけて選べばだいたい間違いないと思います(※個人の感想であり効果・効能を保証するものではありません)。 

 「推奨」の価格帯だと高いと思う場合や、プログラミングや動画・写真編集やゲームが必要にならない公算が高い場合は「妥協」のスペックぐらいにしても学生の間はわりと快適にすごせるかと。

 もちろん「推奨」より高いスペックにしたところで使いにくくなることは基本無い*1ので、予算の範囲内で最大限にしておくのがおすすめです。スペック低いと動作が多少ゆっくりなのは我慢できても、新しいことやりたくなったとき・やらねばならなくなったときに必要なソフトをインストールできないとか、インストールできても使い物にならないとかのリスクが高まるので*2。そのとき新しく買い換えるよりは安く付くと思って奮発しましょう/親御さんを説得しましょう。

 なお予算的な問題が無ければ、同等なスペックのを大学生協で探して買うのが安心です。高く付く分、講習会とかメンテナンスとか故障・事故時の修理保証とか充実してます。すでにPCに慣れてる人や価格を抑えたい人は生協以外で買ってもよいでしょう。

 

 以下、各項目の詳細。

 

  •  タイプ
  • CPU
  • OS
  • オフィスソフト
  •  メモリ
  • ストレージ
  • グラフィック
  • 重量
  • 駆動時間
  • その他 

 

*1:CPUをXEONにするとかOSをWin10Enterpriseにした場合とかは知りません

*2:文系やし、と思ってても分野によっては専門課程や特に大学院まで進むと科学計算ソフト・統計ソフトが欲しくなったりします

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Wordで卒論・修論・博論など書くときに知っておきたいテクニック

もう何ヶ月か前に知っておきたかった人続出かもしれませんが…気づいたら随時追記。
 

書式スタイルの活用

Wordの右上にある「スタイル」というやつです.書式設定が簡単にできるので便利です.
 

アウトラインレベルの設定

1.○○…と書いて改行すると自動で2.が入るWordのお節介に殺意を覚えた経験のある方は多いと思いますが,理解して使えば論文のような構造化された長い文章の作成ではめちゃくちゃ便利です.
 

目次の自動生成

上記スタイルとアウトラインを活用すると,目次を自動生成することができます.
編集によりページ番号や章タイトルが変わったときも,ボタン1つで更新できます.
 

セクション区切りの活用

論文のレイアウトでアブストだけ1段組,イントロ以降は2段組,みたいなのがよくありますが,
Wordでそういうのを作る方法です.また,セクション毎にヘッダーやフッターを変えることもできます.
 
 

図表番号やキャプションの自動更新・相互参照

ドラッグアンドドロップでポイポイ放り込んでテキストボックスや地の文でキャプション入れるのは手軽ですが,少し手の込んだ手順を踏むと,後から図を増やしたり減らしたりがとても楽になります.数式に対しても使えます.
 

画像の位置の固定

挿入した画像は,どこの段落に属している(アンカー=碇を下ろしてあるのか)のか,という情報と共に管理されています.
これが原因で,編集の過程で変なところに飛んでいくことがあります.どうやってそれを防ぐかが書いてあります.
アンカー記号の表示・非表示は左上の「ファイル」→「オプション」→「表示」で設定できます.